近代の今様(3)芥川龍之介の今様

幻の書『梁塵秘抄』の写本が見つかり世に知られたのは、明治44年のことです。
それ以前、詩や唱歌の世界に多く見られた七五調作品の数々は〈新体詩〉としてくくられ、〈今様〉とは認識されないようです。
が、『梁塵秘抄』発見の後はやや状況が変わってきます。
『梁塵秘抄』は詩壇歌壇文壇にインパクトを与え、たとえば斎藤茂吉や北原白秋は『梁塵秘抄』的なモチーフを自らの歌に取り込み、、佐藤春夫は内容/形式両面において今様風の詩を多数書き『殉情詩集』を編みました。
芥川龍之介にも、こんな作品があります。

「相聞 一」
あひ見ざりせば なかなかに
そらに忘れて やまんとす
野べのけむりも 一すぢに
立ちての後は かなしとよ

「相聞 二」
風にまひたる すげ笠の
なにかは路に 落ちざらん
わが名はいかで 惜しむべき
惜しむは君が 名のみとよ

「相聞 三」
また立ちかへる 水無月の
歎きを誰に かたるべき
沙羅のみづ枝に 花さけば
かなしき人の 目ぞ見ゆる

ここには、

思ひは陸奥に、恋は駿河に通ふ也、見初めざりせばなかなかに、空に忘れて已みなまし(「梁塵秘抄」三三五 )

君が愛せし綾藺笠、落ちにけり落ちにけり、賀茂川は、川中に、それを求むと尋ぬとせし程に、明けにけり明けにけり、さらさらさらけの秋の夜は。(「梁塵秘抄」三四三 )

といった歌の影響がとてもわかりやすく見て取れます。なにより芥川自身がその書簡の中で「又今様を作って曰く」と書いていますから、この「相聞」という作品は〈今様〉と呼んでよいのでしょう。

芥川は上記の「相聞 三」を後半部に持つ作品*を室生犀星宛の手紙に綴り(このときは、「詩の如きもの」と自ら呼んでいます)、「誰にも見せぬように」と書き添えたかと思えば、「君の奥さんだけにはちょっと見てもらひたい気」もすると続け、「感心しさうだったらお見せ下され」と難しい注文をつけています。

要するに誉めてもらいたかったのでしょう。

同じ作品を小穴隆一(おあなりゅういち:洋画家、随筆家、俳人)宛ての手紙にも記し、こちらでは「今様を作っ」たと書いているのです。

大正15年湯河原滞在中には、養父宛の手紙で、「書斎の床の間の側の芭蕉布の戸棚の中に」ある『梁塵秘抄』を届けてくれと頼んでいますし、前年春夫宛の手紙では、「長歌、催馬楽、今様などのリズムもどうももう一度考へ直してみる必要がありさうだ」などと述べており、『梁塵秘抄』の今様に深く傾倒したことは確かなようです。

*嘆きはよしやつきずとも
 君につたえむすべもがな。
 越のやまかぜふき晴るる
 あまつそらには雲もなし。
 また立ちかへる水無月の
 歎きをたれにかたるべき
 沙羅のみづ枝に花さけば、
 かなしき人の目ぞ見ゆる。 

注)本稿の内容は、新間進一『歌謡史の研究その一今様考』によります。