近代の今様(2)新体詩というもの

西洋の調べに言葉をのせるとき、七五調が具合よさそうだという発見が音楽界にあったことを(1)で述べました。同じ発見が、翻訳の世界にもありました。明治初期、競って西洋へ留学した者たちが、向こうの文学を日本に紹介しようとします。

死ぬるが増(まし)か 生くるが増か
思案をするは ここぞかし
つたなき運の 情なく
うきめからきめ 重なるも
堪へ忍ぶが 男ぞよ ……

「ハムレット」の “To be, or not to be: that is the question”のくだりを外山正一(とやままさかず)が訳したものです。

矢田部良吉はトマス・グレイの「墓畔」をこんなふうに訳します。

山々かすみ いりあひの
鐘はなりつつ 野の牛は
徐に歩み 帰り行く
耕へす人も うちつかれ  …

七五調ですね(一部は七七)。
彼らはこのリズムを自らの内から生み出し(たと、少なくとも本人たちは思い)、これはいまだかつてない新しい詩の形だと感動し、〈新体詩〉と名づけて世に出しました。

折りからの唱歌需要もあって〈新体詩〉はブームとなり、森鷗外『於母影』をはじめとした翻訳詩にも、島崎藤村、蒲原有明、薄田泣菫といった浪漫派詩人たちの作品にも新体詩形が幅をきかせます。

そうした中にあって、「君たちは新体詩と言うけれど、これは別に新しいものではなくて、日本に昔からあった色々な詩形のうちのひとつ(今様形式)にすぎないんだよ」という落合直文*の指摘もありましたが、詩人たちの耳には聞こえたのか聞こえなかったのか、とにかく七五調の快進撃は続きます。

こうした傾向から完全に脱却し、口語自由詩(現代詩)を確立したのは、萩原朔太郎の第一詩集『月に吠える』です。しかし、その後も現在にいたるまで、唱歌、校歌、軍歌、流行歌といった歌謡の世界には今様調が根強く残っているように思います。

*落合直文:1861-1903 歌人、国文学者。鷗外とともに『於母影』を著したひとり。今様の復活を唱え、井上哲次郎の漢詩「孝女白菊詩」を訳した七五調の長編詩「孝女白菊の歌」は人気を博した。