白拍子

幻の芸能 白拍子

「白拍子」という言葉はもともとリズムの名称で、そのリズムに合わせて歌い舞うこともまた「白拍子」といい、その芸能をする人自身も「白拍子」と呼ばれ平安時代末から鎌倉時代に流行しました。平清盛に愛された〈祇王〉〈仏御前〉、戦で捕虜になった平重衡と恋に堕ちた〈千手前〉、源義経の愛妾〈静御前〉がその代表といえます。これらの白拍子は美しいだけでなく、当時公達の間で流行していた「今様」「朗詠」といった歌謡や「管弦」「和歌」などの教養を備えていました。そして本芸である白拍子の歌や舞に自らの思いを託し、物語や歴史に名を残したのです。その当意即妙の芸で権力者を魅了し圧倒した白拍子は、今なお私たちの心を惹きつけます。
では、白拍子の芸とはどのようなものだったのでしょうか。
室町時代初期には衰退してしまった白拍子ですが、わずかに残る史料から芸態を想像することができます。
白拍子の芸の核は、その名の通りリズムにあり、リズムに合わせ歌い舞い、拍子を踏み回るものであるようです。面白いことに白拍子の芸は「歌ふ」「舞ふ」とは言わず「数ふ」という動詞が使われます。何かを数えるような芸能だったのでしょうか。
また、二段構成をとっているのが特徴です。白拍子のリズムに合わせ「物尽くし」の長い歌を歌いながら静かに大きく旋回する前段、乱拍子のリズムに合わせ和歌を歌いながら激しく拍子を踏み回る後段。特にこの後段部分は「セメ」と呼ばれ、ここでどのような和歌を歌うのかが、白拍子のセンスの見せ所となります。
鶴岡八幡宮の頼朝の前で静御前が歌ったという、
〽︎しづやしづ 賤のをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな
〽︎吉野山 峯の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
というのはセメの部分にあたります。この時の静御前は、都を追われた義経と吉野山で別れ、その後捕らえられ鎌倉に軟禁されていました。お腹の子は殺され悲嘆に暮れていたところ、静の舞が見たいという頼朝をはじめとする鎌倉の御家人たちの所望がありました。全てを失い敵に囲まれながらも、一矢報いようとあえて義経への想いを歌った静御前に白拍子としての気概が感じられます。

※主な参考文献
滝田英二「白拍子の新資料『今様之書』」(昭和41年『国語と国文学』)
沖本幸子『乱舞の中世白拍子・乱拍子・猿楽』(平成28年 吉川弘文館)
梶原正昭校注・訳『新編日本古典文学全集62 義経記』(平成18年 小学館)