北野天満宮と白拍子

曲水の宴

 一昨年(平成二十八年)復興され、今年の三月で五回目を迎えた北野天満宮、曲水の宴。在りし日の菅原道真公も参加していた曲水の宴を、和漢朗詠形式という他に類を見ない形で復興した宴において、当研究所も白拍子舞を担当させていただいている。菅公御歌の中から、春には「東風吹かば にほいおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」、秋には「この度は 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」を歌い舞う。

一度は滅びた幻の芸能である曲水の宴と白拍子、同時代のご縁もあり復興時よりご奉仕させていただくこととなったのだが、この度は北野社と白拍子の浅からぬご縁を改めてご紹介したい。

北野天満宮と白拍子

白拍子と北野天満宮のご縁に関しては、網野善彦氏の著作『中世の非人と遊女』の中で以下のように紹介されている。

実際『民経記』寛喜元年(一二二九)六月一日条に、北野社の毎月の朔幣は「白拍子等巡役」とあるように、白拍子はこうした公的な行事に、おそらくは番を結んで順番に奉仕していたのである。         (網野善彦『中世の非人と遊女』)

鎌倉時代の北野社において、どうやら白拍子がお役目を頂戴し、禄を得ていたようなのである。原典である『民経記』においては、寛喜元年(一二二九)六月一日条に以下のように記されている。

(前略)暫祇候之後」参北野、于時黄昏也、今日依朔幣毎事稠人也、毎月朔幣白拍子等巡役云々(後略)

『民経記』とは、鎌倉時代の公家である民部卿権中納言広橋(勘解由小路かでのこうじ)経光つねみつの日記。自筆本四六巻。嘉禄二(一二二六) ~文永四(一二六七) 年の約四二年間の記録で,闕失部分はあるが,鎌倉時代中期の公家社会の行事が記されている重要史料である。経光は権中納言頼資の男で、蔵人、弁官を経て正二位権中納言に昇った人。

経光は藤原北家に連なる名家の家格を有していた。名家とは、鎌倉時代以降に成立した公家の家格で、羽林家と同等、半家より上のものを表すという。藤原北家は、菅原道真公を無実の罪で太宰府に追いやった藤原時平の出身家系であり、菅原道真公の祟りを一番被り、その後は天神さまを篤く信仰していた。そうした背景もあり、この経光の日記には、北野社への参詣が多く登場する。

曲水の宴で白拍子が舞っていたかいなかは定かではないが、鎌倉時代に北野社において白拍子が奉仕していたことは確かであったといえるだろう。太閤秀吉公の大茶湯が行われ、出雲阿国が初めて常設舞台を持ち踊った北野天満宮は、数々の芸能ともご縁深い神社である。時を経て、古に奉納されていたであろう白拍子舞を現代においても奉納できることを大変光栄に思っている。

小虎 書