宴曲と白拍子歌謡

 白拍子歌謡というものの文学史的位置づけを考えていく上で、同時代の他の歌謡との関係を考察することは必須の視座であろう。前回も取り上げた滝田英二「白拍子の新資料「今様之書」」(昭和四十一年十月『国語と国文学』)には次のような興味深い指摘がある。

所で、白拍子の歌章の上に存する品題を、朗詠や宴曲のそれに比較してみると、洵に興味ある事実が知られるのである。/例へば、「風」「管弦」「水」(水白拍子)「祝」の品題は、朗詠宴曲双方共に存するし、「恋」(職人歌合)「無常」――新無常からの類推――の品題も、これ亦朗詠に見え、宴曲にも、『宴曲集』の「恋」『真曲集』の「無常」が見える。

 ここで滝田は白拍子歌謡が宴曲(と朗詠)と関わりがあるということを指摘している。では宴曲と白拍子歌謡にはどのような類似・差異が存在するのか。
 まず宴曲について、辞書的な概要を掲げる(『日本国大事典』第二版「宴曲」による)。

鎌倉末期から室町時代にかけて、武家を中心に貴族、僧侶などの間に流行した宴席のうたいもの。早歌(そうか)というのが正式。早歌うたひ

 まず宴曲は中世の歌謡である。これは白拍子が活躍した時代に重なり、同時代の芸能だと言える。その証拠に、白拍子も載っている『七十一番職人歌合』には、「早歌うたひ」というのが載っている。この「早歌うたひ」は男性で、一見した印象では武士のように見える。従って宴曲は、どちらかといえば白拍子のような女性が担うよりは、男性が歌う方がふさわしいと見なされていたようだ。

 

『日本国語大事典』「宴曲」の続きを掲げる(傍線引用者)。

雑芸(ぞうげい)や白拍子の系統を引き、天台声明(しょうみょう)の節まわしが取り入れられている。内容は物尽くしや道行きなどで、多くは七五調で凝った修辞が用いられている。初めは扇拍子で歌われた。沙彌明空(しゃみみょうぐう)によって集大成され、歌詞、曲節ともに謡曲の先駆をなした。

 ここでも雑芸(今様など、雅楽とは異なる俗謡の総称)との関連が述べられている。また物尽しは今様や白拍子歌謡にも見られる特徴である。両者に類似がある可能性は高そうだ。
 宴曲の特徴はテキストの多さである。『宴曲集』などのいくつかのアンソロジーが残っており、その詞章を見ることができる。そこで具体的なテキストを掲げ、検討したい。次に掲げるのは「花」という一首の冒頭一部分である(引用は国書刊行会編『宴曲十七帖・謡曲末百番』明治45年によった。読みやすさを考え、一部表記を改めた)。

春は柳の徳ありて顕せり。桜桃李(さくらももすもも)、この花の中にもすぐれたる、紅桜(くれないざくら)絲桜(いとざくら)、初花桜咲けるより、梢にかかかる白雲。花の所の名高きは。石崇が住し金谷苑。廬山のほとりの錦繍谷。我朝(わがちょう)の吉野山。龍田泊瀬志賀の山。奈良の都の八重桜。(後略)

 七五調の調子、典拠の利用、漢文脈と和文脈の混交などは前回のコラムで指摘した白拍子歌謡の特徴につながる。確かに、白拍子歌謡と宴曲には類縁性がありそうだ。
 両者の関係については、まだ十分な調査・考察ができていないので、今後研究を進め、別稿で論じたい。
 ただ最後に述べておきたいのは、こうした中世芸能に関する考察は、芸能者としての白拍子が実際にどのような芸能を行っていたのかを考える手がかりになるということだ。こうした問題意識のもと、今後も考察を進めていきたい。

光らない源氏 書