【後白河院】ごしらかわいん 〈1127~92〉 天皇在位〈1155~58〉
後白河院は、1127年、鳥羽天皇の第四皇子として中宮藤原璋子(待賢門院)を母に誕生した。名は雅仁(まさひと)。その2年後、絶大な権力を振るった白河上皇が崩御し、鳥羽上皇の院政が始まる。すでに4歳で即位していた崇徳天皇は同母兄である。
皇位継承と無縁だった彼は、少年時代から今様に熱中し遊興に明け暮れており、父帝も周囲もおそらく本人も、天皇の器量ではないと考えていた。
ところが、崇徳の後を継いだ近衛天皇(雅仁の異母弟)が17歳の若さで急逝したとき、彼は自らの第一皇子守仁即位までの中継ぎとして帝位につくことになる。皇太子時代がなく、29歳という高年齢(院政期、天皇即位の平均は7歳前後)での即位は異例であった。
天皇に即位して間もなく保元の乱が、上皇となっては平治の乱が起こる。あいついで起きた両乱は武家社会の到来を告げる画期的なものであり、さらに、四半世紀後に起きた治承・寿永の乱は、鎌倉幕府の成立といった歴史の大きな転換を示す争乱であった。こうした動乱の世を生き抜き、中断はあったものの、二条から後鳥羽まで5代の天皇の在位した34年間、後白河院は治天の君として世に君臨したのである。
院政の営まれた「院の御所」は、東山七条一帯に拡がる法住寺殿(ほうじゅうじどの)である。その一郭に蓮華王院(三十三間堂)を建て一千体の千手観音像とともに寄進したのは平清盛だ。
嘉応元(1169)年、後白河院は出家して法皇となる。
若かりし頃の後白河院を側近信西入道は「和漢に比類なきの暗主」と言い、後年の老獪な法皇をさして頼朝は「日本国第一の大天狗」と皮肉った。
しかし、芸能史的に見るならば、その評価はだいぶ異なる。後白河院は終生、芸能に対する情熱を絶やさず、とりわけ今様を深く愛し、貴賤を問わず芸能者らを庇護した。その熱中ぶりは自ら編纂した『梁塵秘抄』口伝集にもつまびらかだ。他にも『年中行事絵巻』の制作に関わり、俊成に『千載和歌集』の編纂を命ずるなど、後の世に遺したものは多い。
法住寺殿の広御所ではよく今様合(いまようあわせ)が催され、「江口(えぐち)・神埼(かんざき)の君、青墓(あおはか)・墨俣(すのまた)の者」が集まって今様の談義に熱中することもあった(『梁塵秘抄』口伝集)。ある秋に行われた十五夜連続の今様合の十三日目、簾中での後白河院の詠いぶりは「御遊びの趣、旁幽玄に入る」というものであった。
後白河院は武家政権が成立して程なく66歳で崩御する。波乱曲折の多いその生涯を通して、変わらずそばにあり続けたのは今様であった。
