近代の今様(1)唱歌の世界

平安末期を最後に衰退したといわれる〈今様〉ですが、七五調(八六調)四句という形式についていえば、明治時代には多くの作例が見えます。

「蛍の光」
ほたるのひかり まどのゆき
ふみよむつきひ かさねつつ
いつしかとしも すぎのとを
あけてぞけさは わかれゆく

明治14年に生まれたこの歌も、完全に七五調四句です。
ご存じのように、この歌のメロディはスコットランド民謡を借りています。
開国直後のこの時代、日本は西洋文化を取り入れることに急で、音楽教育もドレミの西洋音階で行わねばと考えられました。そのためには西洋音階の歌が必要になりますが、作曲できる日本人はまだいません。そこで、とりあえず西洋のメロディに日本語の歌詞をつけて子供たちに教えたのです。そのときに、どうやら七五調や八六調がぴったりだったようです。
「庭の千草」「仰げば尊し」といった例もあります。

ようやく日本人による作曲で唱歌が作られるようになったのは、明治34年滝廉太郎による「荒城の月」が嚆矢と言われています。これには土井晩翠が詩をつけました。

春高楼の 花の宴
めぐる盃 かげさして
千代の松が枝 わけいでし
むかしの光 いまいずこ

完全な七五調四句です。
このあと、日本人による作詞作曲の唱歌が続々作られてゆき、そこでも七五調の歌詞は人気でした。「我は海の子」「花」「月の沙漠」など、皆そうです。

この時代には全国各地に学校も整備されていきます。学校の数だけ〈校歌〉が必要です。土井晩翠や西條八十といった詩人達は、いったい何校の校歌を作ったのか。そして、この〈校歌〉も多くは七五調です。

これらを〈今様〉と呼ぶことはできるでしょうか? 作者のその意識はなかったかも知れませんが、西洋音楽という〈最新の〉〈今風な〉調べにのせたという意味では、近代の〈今様〉と言えるかもしれませんね。