近代文学における祇王祇女説話翻案の諸相① 島村抱月『平清盛』・武者小路実篤『清盛と仏御前』

はじめに

 近代文学には『平家物語』祇王祇女の挿話を翻案した作品がいくつか存在する。今回はその内、管見に入った戯曲について紹介したい。個々の作品論というよりは、近代における白拍子表象の具体像を確認すること、それから白拍子の受容史を考察する一助としたい。

 今回扱うのは、下記の三作品である。

①島村抱月『平清盛』
②武者小路実篤『清盛と仏御前』
③山崎紫紅『祇王祇女』

 島村抱月(明治4~大正7)は明治末期に早稲田大学で美学や西洋文学史を講ずるなど、学者肌の人であり、自然主義陣営の理論的指導者として活躍した。一方で西洋演劇を日本に移入しようと力を尽くした人でもあり、この『平清盛』もそうした近代劇実践の一つに数えられるのかもしれない。

 本作の初出は未調査だが、おそらく明治四十四年一月発表と思われる。後に単行本『影と影』(大2・6)に収録(筆者が参照したのはこの版。国会図書館所蔵)。また、大正五年一月と同年三月に、大阪と東京で上演されたようだ。

 梗概は次の通りである。

〔第一幕〕

ある日、清盛が祇王の奏楽に興じていると、仏御前がやってくる。清盛は追い返そうとするが、祇王の取りなしで招き入れる。仏御前の美貌と芸にすっかり惚れ込んだ清盛は、祇王を追い出す。

〔第二幕〕

清盛と仏御前がふざけ合っていると、祇王が襖に書いた「萌え出づるも枯るゝも同じ野辺の草、何れか秋にあはで果つべき」を見付ける。清盛は平家の栄華が終わることを詠んだと解釈して怒るが、仏は祇王を憐れむ。そこへ宗盛がやってきて、清盛に平家に対する恨みが世間で高まっていることを述べるが、清盛は気にしない。仏も祇王などに怨まれることを気にして、暇を貰おうとするが、清盛は世間の評判など気にしてはいけないという。宗盛はさらに、様々なところで反平家の動きが見られることを報告するが、清盛は取り合わず、いっそのこと都を遷すことを思い立つ。

抱月の作品は、清盛が主役となっているので、祇王と仏御前はやや後退気味である。世間の噂に頓着しない、強い独裁者としての清盛が描かれている。白拍子表象という観点からすると、この作品で見るべきは、装束の指定が細かいのと、仏御前が清盛の前で披露する芸についても指定があることである。

仏  (室の中央に立ち、正面を見て身を構へる)
   『徳是北辰、椿葉影再改、尊猶南面、松花色十廻(トカヘリ)』

清盛 (一心に見とれてゐる様子、顔に血の色動く)
   もうよい〳〵。近う寄れ、こヽへ来い。

仏  (知らぬ振りにて次の責歌(せめうた)を歌ふ)
   『よしさらば、心のまヽにつらかれよ、さなきは人の忘れ難きに』

 しかしこれは『源平盛衰記』の記述に拠っており、抱月のオリジナルではない。

次に武者小路実篤『清盛と仏御前』について紹介する。実篤は説明するまでもなく、白樺派の中心的人物である。梗概は次の通り。

 清盛の所へ、仏御前がやってくる。清盛は会わずに追い返すが、祇王から頼まれて会う。仏御前の美しさと今様に惹かれた清盛は、祇王を追い出す。祇王は仏御前を怨んで、仏御前もいずれは飽きられるであろうという歌を書き残して出て行く。清盛は仏の弱い心を踏みにじるため、祇王を呼んで辱めようとする。呼び出された祇王はいったんは断るものの、清盛の無理強いと母の懇願に負けて、清盛の所へ赴く。祇王は「仏もむかしは凡夫なり」を歌うが、清盛の怒りを招いてしまう。辱められた祇王は、自殺を決意するも、母と祇女に止められて、出家する。

 しばらく時が流れ、仏は出家を決意し、祇王の所へ向かう。清盛はいったんは許可するものの、思い直して直接仏を迎えに来る。しかし仏は清盛の所へ戻るのを拒否する。

  本作は、大正二年十一月『白樺』に「仏御前」のタイトルで発表。今回閲覧したのは、大正四年九月の単行本『向日葵』(洛陽堂)に収められたものである。

 筋そのものは『平家物語』とほとんど変化がないが、人物の性格付けはかなり独自である。実篤と抱月の作品で共通するのは、時の絶対権力者・清盛と、その寵愛を競う祇王・仏という構図である。ただし実篤は『仏御前について』で抱月の作品は清盛が主題であるのに対して、自分の作品は祇王と仏御前が主題であり、作品の力点が異なるという弁明をしている。

 本作について、同じく白拍子表象という観点から注目してみると、芸能者としての側面はほとんど捨象されている。こうした描き方は、そうした細部の歴史的考証より人間の本質的なものを描こうとした実篤、ひいては白樺派らしいと思うのは筆者の牽強付会であろうか。

光らない源氏書