後白河院の熊野詣——今様と信仰

 世の秩序が乱れ、都に戦乱も多かった平安時代後期、ひとびとはよほど現世を頼りなく思ったのでしょうか、死後の浄土に救いを求めるようになりました。浄土信仰の高まりとともに熊野詣が盛んになり、多くのひとが険しい山道を群れなして登ったといいます。その様子は〈蟻の熊野詣〉と表されました。

 後白河院は、その上皇時代に34回も熊野に詣でたそうです。期間から計算すると、一年に一度ではきかない回数です。都から熊野までは往復で約720キロ、ひと月近くかかる行程は、たとえ立派な装備を調え多くの従者を引き連れたとしても決して楽なものではありません。そもそも、〈楽に着いてしまっては意味がない〉修験の道でもあります。何が彼をそこまで惹きつけたのでしょう。

 熊野という土地は、『日本書紀』に伊弉冉尊(いざなみのみこと)の葬地と記されるなど、古来、他界へつながる霊域と考えられていました。

 本宮大社/速玉大社/那智大社は、神社でありながら、「神は仏の別の姿である」という本地垂迹思想により仏教的性格も色濃く、それぞれが西方極楽浄土/東方瑠璃浄土/南方補陀洛浄土と目されてもいました。熊野詣とは、この三社を巡礼することです。

 もともと由来の異なる社でありながら、互いの神を合祀し〈熊野三山〉としてまとまりを見せたことも人気を助けました。

 とはいえ、そこは〈浄土〉ですから、容易にたどり着けるわけでありません。まず参詣に先立ち、厳格な精進潔斎が必要でした。また、険しい山深く分け入るので、道案内をしてくれる修験者(先達)も必要でした。

 何日もの潔斎を終えてようやく出発し、先達から渡された杖をついて歩みを進め、いざ霊域に近づくと、浄土へ入るためここでいったん(形式的に)死なねばなりません。霊域から流れてくる川を〈三途の川〉に見立て、徒歩であの世へ渡ったといいます。そして9つの鳥居をくぐり、浄土に生まれ変わるのです。

 9つ目の大鳥居をくぐると、これまでの杖に替えて金剛杖が先達から渡され、これをついて最後の川を渡ります。音無川です。音無川を草鞋を濡らして渡ることを〈ぬれわらうず(濡れ草鞋)の入堂〉と言い、冷たい水に心身を清めて初めて本宮神域へ入ることを許されたそうです。

 そこへ至る道が苦しいほど、たどりついて見た風景は格別です。現代でさえ、たとえ一日でも熊野古道を歩いてみれば、神域のありがたみはいや増します。筆者は昔、そのようにして至った大斎原(おおゆのはら:旧本宮社殿跡)で、するするっと目の前を横切る白蛇を見ました。ああ、ここには神がいると心震えたものです。都から歩き通した昔のひとならなおさらでしょう。

 後白河院は34回のうち初回、2回目、12回目の熊野詣を『梁塵秘抄口伝集』に書き残しています。そのそれぞれに奇跡を見たのです。

 初回では、夜中、長岡王子社に詣でて今様を歌っていたとき、同じ境内で寝ていた清盛が、荘厳な神の御幸を夢に見ました。はっと目覚めると、後白河院が「熊野の権現は 名草の浜にぞ降り給ふ〜」と歌っていたのです。その歌声を聴きに権現様がやってきたのだと知らされて、院が感動しなかったはずはありません。

 2回目の参詣では、院の歌った今様に、神もまた今様をもって応えたと、先達の僧侶から知らされました。

 12回目のときは伝聞ではなく、自ら〈伊地古(いちこ)〉という今様を歌うことで神を下ろしてしまった体験をします。神がすぐそばにやってきたのです。

 いずれのときも、深夜から未明にかけて、皆が寝入ってさえなお後白河院は今様を歌い続けていました。繰り返し繰り返し歌うことで一種のトランス状態に入っていたのかもしれません。ご神体の鏡が灯火を映してちらちらと輝くさまに涙が止まらないとも書いています。

 御所にあっても喉を潰すほど歌い続けた後白河院ですから、熊野の社で夜通し歌っていても不思議ではありません。それはどのような歌だったのでしょう。

 わたしたちは「今様は現代でいうところの流行歌だった」と解釈していますが、流行歌にも色々あります。人々が寝静まった社殿にタテノリの歌はふさわしくないように思えます。どちらかといえばメロディアスな歌を、神や仏に届けるように心を込めて歌ったことでしょう。

「口伝集」を読むと、〈今様〉に対する後白河院の真摯さが伝わってきます。娯楽や趣味と言う以上に、神仏に通じる神聖なものとして、己の全存在を賭け、いつも彼は歌っていたように思われます。 

                                      犬君 書

 参考)

  • 「み熊野ねっと」http://www/mikumano.net
  • 馬場光子「梁塵秘抄口伝集 全訳注」講談社学術文庫
  • 天野太郎「京都に息づく熊野街道とその信仰」(三洋化成ニュース2017 no.501所収)
  • 「平安時代史事典 本編上」角川書店