松殿山荘の主〈松殿基房〉とは

 大正時代に高谷宗範が十七もの茶室を含む屋敷を建てて以来、〈山荘流〉茶道伝道の地となった〈松殿山荘(しょうでんさんそう)〉は、さらに時代を遡ると、平安時代、今様や白拍子の芸能が流行していた頃には松殿基房(まつどのもとふさ)の別業(荘)地でした。〈松殿山荘〉と呼ばれるのはそれゆえです。この基房とは、どのようなひとだったのでしょうか。

・なぜ〈松殿〉と呼ばれたのか。

 基房は藤原家の一員で、後白河院の時代に摂政・関白を務めました。

 その本宅は、上西門院統子(じょうさいもんいんむねこ)内親王の御所があった跡にあり、この御所はかつて〈松殿〉と呼ばれていました。現在の京都御苑南西角のあたりです。

 当時、都に藤原さんはたくさんいたので、どこの藤原さんか言わないとややこしかったのでしょう。兄基実は〈近衛〉通りの藤原さん、基房は〈松殿〉跡の藤原さん、弟兼実は〈九条〉通りの藤原さんと呼び慣わされていたのですね。

・ざっくり生涯(1145-1230)

 父は関白太政大臣藤原忠通。つまり藤原北家嫡流のサラブレッドです。兄基実が早世したため、基房は若くして六条帝の摂政となりました。

 が、このとき、基実に娘を嫁がせていた清盛は、その遺産を近衛家に留め、藤氏長者となった基房へ渡すことを拒みます。

 さらに、平家の御曹司資盛(すけもり)と往来で揉めた〈殿下乗合事件〉(注)などもあり、平氏と対立せざるを得なくなりました。

 高倉帝元服後は関白となるものの、清盛が後白河院を幽閉するにいたったとき、基房も任を解かれて配流の身となり、そのまま出家してしまいます。

 平氏西走後、木曾義仲に娘伊子(注)を嫁がせ、その力を借りて、いったんは嫡子師家を摂政に据えることに成功しますが、やがて義仲が討たれて元の木阿弥。摂政の地位は近衛基通(基実の子)に戻されてしまいます。

 これ以後、摂政関白は近衛家、九条家の流れに限られ、松殿家から立つことはありませんでした。 藤原氏 こうして政治的な権力を失った基房ですが、その豊かな学識は常に人々の尊敬を集めていました。

 後白河院から『年中行事絵巻』の校閲を依頼されたことはよく知られています。基房は訂正箇所を押し紙(付箋)に記して戻しますが、訂正内容もさりながら、その筆跡までが美しく、院は押し紙を剥がさずそのまま作品の一部として保存したそうです。

 権力闘争に敗れた後も、隠遁先を基実や兼実の孫たちが訪ねて教えを乞うたり、後鳥羽上皇がこっそり訪れて儀式作法の伝授を求めたりもしています。

 没後でさえ、有職故実に関しては〈松殿関白説〉こそが正統と重んじられたのだとか。

注)殿下乗合事件 :往来で基房の行列は女車の行列と出会い、その無礼を咎めて乱暴を働いた。後に女車に乗っていたのが平家の御曹司資盛であったと知り基房は謝罪するが、平家の怒りはおさまらず、3か月後、基房が高倉帝元服に関する評議のため参内するところを襲撃した。それがため帝の加冠の儀も延期される事態となった。

注)藤原伊子 (ふじわらのいし):義仲亡き後、源通親の側室となり男子文殊丸を得る。文殊丸とは、後の道元(曹洞宗の祖)。

 

〈松殿山荘〉では、ここ数年、秋に〈今様合〉を催しています。管弦や今様にも一家言あったであろう基房翁の魂を歌や舞で慰められたなら幸いです。

犬君書