今様の旋律(の謎)

〈今様〉という言葉は、もともとは単に「今風の」という意味だったものが、次第にその一語で「今風の歌」「今様歌」を指し示すようになりました。「今様歌」がそれほどに流行したからでしょう。

〈今様歌〉という言葉が文献に現れるのは、平安中期、紫式部や清少納言の頃からです。

『紫式部日記』には、中宮彰子の出産が近づき、夜も宮中に居残るひとが増え、経を読んだり今様歌を歌ったりしている様子が描かれています。どうやら年寄りには歌いにくいものだったようですが、内容的にか技術的にか具体的なことはわかりません。

『枕草子』には、   

今様歌は長うてくせづきたり

と書かれています。  

  ……長いって、何が ?  くせづいてるって、どんなふうに?

 現代語訳を見ると、歌詞が(和歌に比べれば)長いとか、節を長く引き延ばすとか、節回しが変わっているとか、複雑だとか、さまざまに訳されており、結局のところ、よくわかりません。

『梁塵秘抄』には今様の歌詞は豊富に残されていますが、譜面はありません。

声わざの悲しき……

 後白河院は、歌詞は残せても音は残せないことを嘆きました。録音技術のない時代のことですから当然です。だからこそ言葉を尽くして、今様というもののあり方を残そうとしたのでしょう。

 しかし、そうであるならば、難しい歌唱法はともかく、まずは楽譜を残してほしかった。

〈歌謡〉であるからには、メロディとリズムがあったはずです。それがなければ歌うことはできません。われわれは切実にそれが知りたいのです。

  なぜ譜は残されなかったのでしょうか。あるいは、『梁塵秘抄』の失われた部分には、譜が記されていたのでしょうか。

 現在歌われている今様は、ほとんどが「平調越天楽」の旋律を用いています。文部省唱歌として長く歌われた「春の弥生」(慈鎮和尚作歌)もそうですし、「黒田節」もその流れと言われています。

 昔から寺院では法会に雅楽を演奏することがよくあり、基本的には器楽曲であるはずの雅楽に宗教的な歌詞をあてて歌うことは珍しくなかったようです。残存する鎌倉時代の声明譜の中には「越天楽」に歌詞をつけたものも見つかっているとか。

 とすれば「越天楽今様」はそうとう古い歴史を持つことになりますが、といって、全ての今様が雅楽の旋律に合わせて歌われていたとも思えません。そのような一様のものであれば、後白河院も傀儡たちも習得にそれほど苦労しなかったでしょうし、第一、あまり「今風」に思えません。

〈今様〉とはどのような歌だったのか。おそらくいろいろな系統の相当広い範囲に跨がる歌が、〈今様〉という一語にくくられていたのではないでしょうか。現在でも、演歌からラップまで、かなり異質な曲調の歌が〈流行歌〉としてくくられるように。

 青墓の傀儡たちが秘曲とした〈足柄〉まではのぞみませんが、〈只の今様〉と分類されるごくオーソドクスな今様はどのような節で歌われていたのか、知ることができたらどれほど嬉しいでしょう。

 実を言えば、ごくわずかですが〈今様〉の譜と呼べるものがないわけではありません。

 室町時代の公卿、洞院入道満季(みつすえ)がまとめ、後に綾小路家に伝わった『朗詠の秘譜』の巻末には、今様5首の譜が載っていました。

  「蓬莱山」「霊山御山(りょうせんみやま)」「長生殿」「鶴群居(つるのむれい)」「春始(はるのはじめ)」

 どれもおめでたい曲なので、宴で歌われたものでしょう。

 ありがたいことに宮内庁楽長であった芝祐泰(しばすけひろ)氏によって、墨譜*はわれわれにもわかりやすい五線譜に書き直されています。

 これがそのまま平安時代に歌われた今様であるとは言い切れませんが、しかし、朗詠に似て一音を引き延ばすところ、あるいはたびたび声を揺らすところなど、なるほど

長うてくせづきたり

 と言えないこともありません。はてさて。

 タイムマシンがあったなら、ぜひ「上り」列車の平安時代行きに乗り、当時の今様を録音してきたいものですね。

犬君  書

 

*墨譜(すみふ・ぼくふ・ふしはかせ):音曲の文章の傍らにつけて節の高低、長短を示す符号

参考)

・植木朝子「遊女の芸尽くし〈朗詠・今様・白拍子〉—重衡と千手の物語から」(連続講座「今様・白拍子・平家物語」2012年9月8日有斐斎弘道館)

・高桑いずみ「『梅枝』と越天楽今様」(『銕仙』2011年12月号「研究十二月往来〈296〉」

・田代幸子「虚構された声の権威—後白河院と譜の問題からの一考察—」(『学習院大学大学院日本語日本文学』3号 2007年3月)

・芝祐泰『五線譜による雅楽歌曲集』国立音楽大学出版部 1964年