今様合せの実態―承安四年九月の今様合から

 当研究所では、毎年秋に宇治の松殿山荘にて、今様合の宴を開催している。和歌の歌合の歴史は、最初の勅撰和歌集である古今和歌集が成立する以前から行われている。和歌の優劣を競うこの宴は、やがて、さまざまな物を競う合せ物として多様化していった。源氏物語の著名なシーンである「絵合」も合せ物の一つである。今様の流行した院政期には、今様合せの記録も残っている。どのようなものであったのか、当時の貴族の日記から見てみよう。

 もっとも盛大であった今様合せは承安四年(一一七四年)九月一日から十五夜連続で行われた宴である。主催者である白河院の御所、法住寺殿で行われた。名手の公家を三十人あつめ、一晩に二人一組ずつ今様合せを行っていたようだ。

 宴に参加した公家の日記にはこんな記述がある。

歌合、左散位資時、勝、右散位盛定。右先出哥。依勝方云々 前々又如此。左歌之時、右一切不付之。兼存可付之由歟。雑芸等了、終頭盛定歌権現様。左不付之。敦家流之外不歌之故云。 両人起座、以左為勝。次有御遊。

(『吉記』高橋秀樹 編『新訂吉記 本文編一』(和泉書院)二〇〇二年二月によるが、一部表記を改めた。 九月十三日の記録)

大意を記すと、「歌合は左方の源資時が勝ちで、相手は藤原盛定。まず右方が先に歌う。これは昨日は右方が勝ったからである。(昨日も右方からであった。)左方が歌うとき、右方は誰も歌わない、事前に約束があったのか、雑芸などが終わってから、終盤に盛定が権現様子を歌った。左方は誰も歌わない。「敦家流」以外の者は歌わないならいだからであるとか。右も左も両者起座し、勝者は左となった。その後、御遊びの管弦がおこなわれた。」ということである。

 また、『梁塵秘抄口伝集』には次のような話がある。

この兼雅卿今様合の時に、足柄のなかに駿河の国うたはれしを、乙前が娘ききて、「これは御所よりたまはられたると覚ゆる節のあるは、習ひまいらせたるやあらむ。」といひける。

(新間進一他校注・訳『新編日本古典文学全集 神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集』小学館二〇〇〇年十一月 三六五頁 表記を一部改めた。)

今様合わせでの兼雅のうたい方が、白河院のそれに似ているという場面である。

 この二つの記述からわかるのは、今様合せは、歌合のように歌詞の優劣を定めるのではなく、既存の歌をうたうことによる競技であったということである。

 白河院が『梁塵秘抄口伝鈔』で今様の弟子たちの歌唱力について述べているように、今様のよしあしは、うたうという行為に焦点があてられたのだろう。  

六畳院 書

※新間進一『歌謡史の研究その一今様考』至文堂一九四七年
※馬場光子「記録のまなざし・承安四年「今様合せ」―朗詠・今様および琵琶のこと―」『日本文学』五六号二〇〇七年七月