今様と仏教Ⅰ 今様と和讃(1)

 グレゴリオ暦に換算すると、5月22日は親鸞聖人の誕生日となるそうである。

親鸞聖人と言えば、浄土真宗の宗祖として知られている。聖人は存命中、多くの和讃を作り、中でも『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末浄土和讃』は「三帖和讃」と言われ、主要なものとなっている。

和讃は、仏・菩薩の功徳や高僧の業績などについて、日本の言葉でわかりやすい歌で説明するものである。そのため、民衆は和讃を口ずさむうちに自然とそれらの思想に親しんでいったものと思われる。

 

三十五の願のこゝろなり

一〇

彌陀(みだ)の大悲(だいひ)ふかければ

佛(ぶち)智(ち)の不思議(ふしぎ)をあらはして

變(へん)成(じやう)男子(なむし)の願(ぐわん)をたて

女人成佛(にょにんじゃうぶち)ちかひたり

親鸞『浄土和讃』大經意(だいきょうのこころ) 

*彌陀の大悲(衆生に対する慈しみ)は他の諸仏と比較して殊更深いので,仏智(仏の欠けたところのない智)の不思議を示されて,変成男子,女人成仏の請願を建てられた。

 

 ところで、この和讃の形式は、私にとって大変親しみやすいものであった。それというのも、今様歌(以後、今様)同様、七五調の句を四句連ねた形であったからである。

 

一一六

女人(にょにん)五(いつ)つの障(さは)りあり

無垢(むく)の浄土(じやうど)は疎(うと)けれど

蓮華(れんげ)し濁(にご)りに開(ひら)くれば 

龍女(りゅうにょ)も仏(ほとけ)に成(な)りにけり

『梁塵秘抄』

*女は生まれながらにして五障を持っている。浄土はなかなか遠いけれども,蓮華が泥の中で美しい花を咲かせるように竜女も仏となった。

 

 どちらも女性の成仏の話について詠みこんだものであるが、その根幹には「女人五障説」という考え方がある。「五障」の「障」とは「地位」を意味し,女性には就くことのできない5つの地位があるという説である。たとえば『法華経』では,女性は「梵天王,帝釈,魔王,転輪聖王,仏」になれないとされている(栗原, 1996)。

 この五障の身を抱えながら生きていた当時の女性にとって、こうした和讃や今様は光明となっていただろう。

 しかしこうしてみると、今様と和讃の明確な違いはどこにあるのかという疑問にぶつかる。もちろん、今様は仏について詠んだものだけではなく、神についてのもの、当時の流行について詠んだものなど様々ある。しかしながら、こと法門歌に関して言えば、同時代、同じように民衆に歌われ、同じような形式と同じような内容を持っている。

調べてみると、今様が和讃を取り込んだというものもあれば、和讃が今様の形式に影響を与えたというものもあるし、和讃が今様に影響を与え、さらに今様の形式を和讃が逆輸入したと述べているものもある。違いを検討する、どちらが先か考えるということはあまり意味をなさないのかもしれない。

 どのような変遷があったかはおいおい検討していくとして、仏の教えを自分にわかる言葉で口ずさむことのできた今様や和讃は、当時の人々の心の支えとなっていたことだろう。

引用・参考文献
金子珠理 (2015) 変成男子の謎 グローカル天理, 16, pp12.
栗原淑江 (1996) 女人救済変成男子説 『女性と教団』国際宗教研究所編 ハーベスト社
西口順子(2006)『中世の女性と仏教』 法蔵館

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