尊経閣文庫蔵『今様の濫觴』系図編 ——今様の正統

 これは、『今様の濫觴』(前稿参照のこと)に記された系図の一部を馬場光子氏が見やすく書き直した簡略版です。
 *馬場光子著『今様のこころとことば』三弥井書店(1987)より

青墓系図略
 内容は、中世東山道の宿場町〈青墓〉に伝わった今様の系譜であり、筆頭にあげられるのは村上天皇の皇女〈宮姫(みやき)〉、それを受け継いだのが青墓の傀儡(くぐつ)たちということになり、傀儡といえばおそらくジプシーのような集団だったと思われるので、現代の感性では想像力が追いつかないところです。妄想も膨らみますが、これはひとまず脇へ置いておきます。

 さて、この系図には『梁塵秘抄口伝集』でよく見かける傀儡たち(今様の歌い手)の名前が見えますので、◻︎で囲ってみました。これを横目で見ながら、『口伝集』を読んでみますと、ややこしい内容がだいぶわかりやすくなるように思えます。たとえば、あるとき法住寺の法会の後の噂話はこんなふうでした。(下線は傀儡の名)

藤原能盛「さはのあこ丸がこんなことを言っていましたよ。『五条(乙前)殿は歳寄りのわりには声も若く見事な歌いぶりだけれども、古様の〈足柄〉は歌えないのではないですか。めいの子供としてしばらく美濃にいたこともありますが、早くから京に来てしまっていたので、清経あたりの歌い方を習ったのでしょう。めいも実の子供のようには、まさか教えていないでしょうから』とね」

 なるほど、系図を見ると、乙前はめいの実子ではありません。これを聞いた乙前が反論します。

乙前「よい機会ですから申します。監物清経が美濃に泊まったとき、十二、三歳だったわたくしはめいとともにその席で歌いました。監物は、素晴らしい声だ、将来が楽しみだと言って、めいとともにわたくしも京へ連れてまいり、みなでひとつ同じ家で暮らしました。そして、めいに向かい、長年面倒を見た見返りと思ってこの子に歌を教えなさいと申しましたので、めいはそのような誓約をし、全てをわたくしに教えたのです。このことをどうやって明らかにしましょうか。
 まあ、あちらが仰るならこちらも言わせていただきますが、大大進(おおだいしん)の姉に和歌というひとがおりまして、彼女の申しますには、あこ丸の母は四三(しさん)に早くに死に別れて大曲を習えず歌えなかったのを、土佐守盛実(とさのかみもりざね)が甲斐へ連れて行きそこで教わったのだそうです。わたしの親(めい)がそう言っておりました。たれかはも、たびたびうちへ来ておりましたが、『あこ丸が上手だなんて知らなかったわ』と言っております。さはのあこ丸の歌は四三の様式とは違うとの評判もあります。とにかく、小大進(こだいしん)をお召しになってその歌をお聴き下さい。これこそ心打たれるすばらしいものです」

 どうやら彼女らにとって、正統か否かの判断基準は、四三からきちんと歌い方を受け継いでいるかということのようです。実子相伝が基本なので、実子か弟子(養子)かの差も大きく、さらに今様の聖地とも言える青墓に根付いていることも条件です。

 ここまでのところ、
   乙前は、 × めいの実子ではない
        ○ 四三の流れの教えは伝承している
   あこ丸は、○ 四三の実の姪で血筋はよい
        × 母親は大曲を甲斐で習った
 ということで一勝一敗。

 その点、完璧な継承者として誰からも認められているのが、青墓で大曲を守っている小大進というひとなので、このひとと同じ歌い方かどうかで白黒つけようということになるのです。
 この後、いよいよ青墓から小大進が上洛し、皆のいる前で〈足柄〉を披露しますと、誰もが後白河院と同じ歌い様だと認めます。つまり、あこ丸が〈京足柄〉と揶揄する乙前の歌い方と同じです。逆にあこ丸の歌い方とは似ていません。小大進は上洛したばかりで、院の歌を聴いたことはないのですから、わざと似せて歌ったとは考えられません。
 ここに、乙前の歌い方こそが青墓の正統と衆人の認めるところとなり、あこ丸は負け惜しみを言って小大進の背中をぶったりするので、なおさら顰蹙を買うのでした。

 さはのあこ丸——憎まれ役ですが、見ようによっては貴重なキャラクターですね。
  実は、乙前を師と定める前に、院はあこ丸に何曲か教わったことがあり、しかし続かず、そんなことからも乙前に敵愾心をいだいていたのかもしれません。

 ちなみに、乙前の声を認めて育て、都にデビューさせたプロデューサー、監物清経は、西行の母方の祖父にあたるそうです。

*『今様の濫觴』記載の系図全体を翻刻したものは、馬場光子著『梁塵秘抄口伝集』講談社学術文庫(2010)に掲載されています。

犬君 書